安陪内科医院:院長の不定期エッセー

2007-10-26

脳とタバコ

タバコについては社会的一般的に「健康に悪いのだから、タバコを吸うことも悪いことだよ」といったイメージがある一方で、「吸えばストレスが解消できてリラックスできるのだから、タバコを吸う人生の方が心地よいし楽しいよ、吸わないほうが体に悪いよ」というイメージも一般的である。そしてこのようなイメージがあるからこそ、禁煙運動をしている人たちは道徳的に厳しい堅物であるかのような印象をもたれやすいし、その一方でタバコに対して「堅苦しい道徳などに縛られない自由」を観る人もいる。ある有名人は「タバコが悪いなんて、そんな野暮なことを言うなよ」と「野暮」という言葉で片付けていた。またある人は「自分の人生にはタバコしか楽しみがないのだから、タバコをやめてくれなんて言わないでくれ」と話していたし、「タバコなしでは今の仕事をこなしていくことができませんね」と話された人もいた。

しかし少なくとも私の頭の中では、タバコという存在は上記のイメージから、かなりかけ離れた存在である。その私のイメージをこれからご説明したいのだが、その説明をする上でまず考えていただきたいのは「ストレスや楽しみといった感情が、どうして人間には存在するのか?」という問題である。

人間は生きていく上で、さまざまな喜怒哀楽を感じながら生きている。喜んだり怒ったり、哀しんだり楽しんだり、心地よくなったり苦しんだり、愛おしくなったり、恐れたり。さまざまな感情の流れの中で生きている。「喜び」「楽しみ」「心地よさ」「愛しさ」というのは「快」であり、「怒り」「哀しみ」「苦しみ」は「不快」「怖れ」である。この「快」や「不快」の中で人間は生きているのである。

そして人生、楽しいこと、心地よいこともあるが、やはり生きていると苦しむことも多い。お釈迦様は「生老病死」(生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気の苦しみ、死ぬ苦しみ)の四苦、そしてさらに「愛別離苦(あいべつりく)」(愛するものと別れなければならない苦しみ)、「怨憎会苦(おんぞうえく)」(憎むものに会う苦しみ)、「求不得苦(ぐふとくく)」(欲しいものが得られない苦しみ)、「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」(五蘊(色・受・想・行・識)から起こる苦しみ)の4つの苦しみも加えての八苦を指摘され、「一切皆苦」と仰られたくらいである。人は誰でも苦しみたくない。苦しみから逃れたい。しかし人生は四苦八苦であり、苦しみのない人生はありえない。

さて、この「怒り」「哀しみ」「苦しみ」「怖れ」などの「不快」な感情や、「喜び」「楽しみ」「心地よさ」「愛しさ」などの「快」の感情は、脳が作り出している。先ほども述べたように「人は誰でも苦しみたくない。苦しみから逃れたい」にも関わらず、脳はどうして「怒り」「哀しみ」「苦しみ」「怖れ」などの「不快」な感情を生み出すのであろうか? こんな感情などなければ、人は「喜び」「楽しみ」「心地よさ」などの「快」の感情だけを感じて楽に幸せに生きられるはずではないか?、ということにならないだろうか。例えば遺伝子技術の科学が発達して、「怒り」「哀しみ」「苦しみ」「怖れ」などの「不快」な感情が一切存在しない人間を作り出すことができたなら、その人間は幸せな人生を送れるということになるだろうか?

もし「怒り」「哀しみ」「苦しみ」「怖れ」などの「不快」な感情が一切存在しない人間がいたら、その人はうまく生きていくことができるか? というと、実は逆である。崖っぷちを歩いていても、怖くないのでニコニコ笑って、そのまま崖下に落ちてしまう。犬に噛まれても、苦しくも何ともないので、噛まれて出血したままになっている。人から叩かれても、怒りも哀しみも感じないので叩かれたままになっている。そんな人間が生きていけるであろうか? 結局「怒り」「哀しみ」「苦しみ」「怖れ」などの「不快」な感情が存在しなければ、その人の生命そのものが存続できないのである。

同様に「喜び」「楽しみ」「心地よさ」「愛しさ」などの「快」の感情も生きていく上で、そして子孫を残す上でも必要なものであることがわかる。食事に喜びや楽しみがなければ、栄養が足らなくなって倒れてしまう。暑い中、涼しい木陰と涼しい風に心地よさを感じなければ、熱中症にかかって倒れてしまう。性行為に快感を感じられなければ、子供は生まれてこない。生まれた子供に対して愛しさを感じられなければ、育児放棄となって、その子供は死んでしまう。

つまり「怒り」「哀しみ」「苦しみ」「怖れ」などの「不快」な感情も、「喜び」「楽しみ」「心地よさ」「愛しさ」などの「快」の感情も、どちらも人間が生きていく上で必要不可欠な基本機能なのである。人が生命維持や子孫繁栄に危機を及ぼすような状況に対しては、その人の心には「怒り」「哀しみ」「苦しみ」「怖れ」などの「不快」な感情が生まれ、その状況から人は逃れようとする。人が生命維持や子孫繁栄を促進させるような状況に対しては、その人の心には「喜び」「楽しみ」「心地よさ」「愛しさ」などの「快」の感情が生まれ、その状況を人は求めようとする。

原始時代

そして人の脳には、どのような状況が、自分の生命や子孫繁栄に危機を及ぼすのか、それとも逆に促進するのかといった情報が、生まれつき予めプログラミングされている。新鮮で健康になるような食物を口にすれば、美味しいという快適な感情が生まれ、その食物をしっかり食べようとし、結果的に健康を保てる。猛獣が吠えながらやってくれば、怖いという不快な感情が生まれ、その猛獣から逃げようとし、結果的に命が助かる。これが逆に、腐った食べ物を美味しいと感じて食べてしまえば、お腹を壊して病気になってしまうし、猛獣をかわいいと思って逃げなければ、猛獣に食べられて死んでしまう。

ちなみに、このような「感情」という生命維持、子孫繁栄の基本機能、本能的なプログラムを持っているのは別に人間だけではないようだ。犬の行動を見ていれば、恐怖の対象に吠えて威嚇したり、逃げ出したりするし、美味しそうな餌に対しては尻尾を振っていかにも嬉しそうに近づいて食べたりする。いや、金魚のレベルですら、餌をあげれば近寄ってきて美味しそうに食べているし、少し水槽を突いたりすると怖がって逃げ出したりする。

つまり「感情」というものは、何千万年、何億年という生命の進化の過程の中で作られてきた生命維持、子孫繁栄の基本機能、本能的なプログラムなのである。遺伝子のランダムな突然変異の中で、生命維持、子孫繁栄に有利な感情-行動パターンを取れる進化をした生物が生き残り、不利な感情-行動パターンとして生まれた生命は十分に生命維持、子孫繁栄ができず滅びていった。その進化、生命のつながりの中で、私達はこの世に生まれきており、そして「感情」という生命維持、子孫繁栄の基本機能、本能的なプログラムを獲得している。

ところがここで人間と他の動物との違いが問題となる。動物の場合、ただひたすらに本能的な感情に基づいて、快であるものを目指し、不快であるものから逃げる、という行動パターンをとることが、もっとも生命維持、子孫繁栄に適した生存戦略になりえている。よく快楽ばかりを追い求めている人間を「あれは人間じゃなくて獣だね」と評することもあるが、獣つまり人間以外の動物は、ただ快楽ばかりを追い求めれば、それがもっとも生命維持、子孫繁栄に適した行動になっているのである。しかし人間だけはそうはいかない。人間は智恵、知能を持って推論能力を身につけてしまい、あまつさえ「文明」「社会」というものを作り出してしまったからである。

例えば、「疲れた、休みたい」と思っても、休憩時間になる前に勝手に休んでいたら仕事の連携がうまくいかず、仕事に損害を与えることがすぐ思い浮かぶ。だから自分がいくら「疲れて不快だ。早く休んで快適になりたい」と思っても、休憩時間になるまでは休めない。またいくら疲れても、設定ノルマをこなさなければ、仕事が続けられない、給料がもらえないといったことがわかっているので、疲れてもノルマはこなさなければならない。また、病院に行って病気で注射を受ける際に、「注射は痛い、怖い」と思っても、そこで逃げ出せば病気がさらに悪くなるであろうことがわかっているので逃げ出せない。またもっとも顕著な例が性行為だろう。動物であれば発情期にオスがメス獲得の競争に勝ち交尾をすればいいだけの話だが、人間が社会の中で誰とでも性交渉を行おうとすれば大問題であり、性犯罪になる。結局、人間はなまじ知能をもったがゆえに、「快ならば追い求める。不快ならば逃げ出す」という快感原理に基づいた行動が単純には取れなくなってしまったのである。

そして文明、社会は「本能に基づいて、快、不快の感情のままに行動すればよい」という行動では成り立たなくなってしまうため、そのために「快楽」は社会の中で否定的、つまり「悪」としてまで捉えられるようにまでなってしまった。数千万年、数億年という、「感情」というものが進化していった年月と比較すれば、人間が「社会」を持つようになった年月は数万年から数十万年くらいなのだろうか?。その「社会」の中で「快楽を追い求める感情」は「悪」とされ、「快楽を抑制して頑張って社会生活や仕事を成り立たせること」が「善」だといったような道徳的価値観が生まれた。そして人間は「社会」「文明」の中で、推論に基づいた行動と感情的な行動の間に挟まれて生きていかざるをえなくなってしまったのである。

結局、旧約聖書に書かれているように、人間は「善悪の知識の木の実」を食べてしまったがゆえに、「本能に基づいて、快、不快の感情のままに行動すればよい」というエデンの園から追放されてしまった、と言えるのかもしれない。

ところで話は脳の中に戻るが、脳の中で、どのような生命維持や子孫繁栄に危機を及ぼすような状況で「怒り」「哀しみ」「苦しみ」「怖れ」などの「不快」な感情が生まれ、またどのような生命維持や子孫繁栄を促進させるような状況に対しては、「喜び」「楽しみ」「心地よさ」「愛しさ」などの「快」の感情が生まれるのか、という仕組みはまだよくわかっていない。よくわかっていないが、脳の内部構造は少しずつ解明されており、例えば、「快」の感情を生み出す経路として「脳内報酬系」が知られている。「脳内報酬系」というのは欲求が満たされたとき、あるいは満たされることが分かったときに活性化し、その個体に快の感覚を与える神経系のことであり、別名A10神経系とも呼ぶ。生命維持や子孫繁栄を促進させるような状況になれば、この「脳内報酬系」が働いて、側座核でドーパミンが放出され、人はそこで快感を感じるようになっている。

脳内報酬系

さて、ここでやっとタバコの話になる。タバコを吸うと「美味しい」と「愛煙家」は話す。だがタバコの「美味しさ」は食物の「美味しさ」とはちょっと異なる。食べ物の美味しさを人体のどこで最初に感知するのか、と言えば「舌」という感覚器である。秋刀魚や鰻の焼ける美味しそうな匂いを人体のどこで最初に感知するのか、と言えば「鼻」という感覚器である。そして「舌」や「鼻」で捉えられた感覚情報は電気信号として「脳内報酬系」へと伝えられ、最終的に側座核でドーパミンが放出され、「美味しいなぁ」という快の感覚、感情が作りだされる。さてそれではここで問題である。

「タバコの美味しさを、人体で最初に感じる臓器はどこなのか?」

タバコを吸うと「美味しい」と「愛煙家」は感じるし、それは実感として嘘ではない。しかしその美味しさを「舌」で味わっているわけでもなければ「鼻」で味わっているわけでもない。それでは、いったいどこで「愛煙家」はタバコを美味しいと感じているかと言えば、平たく言えば、この脳内のA10神経で直接感じている。もう少し厳密に話せば、吸引して肺の中に取り込まれたニコチンは血液中に移動し、その血液は脳に到達し、そして血液中のニコチンがA10神経におけるα4β2ニコチン性アセチルコリン受容体と結合し、ドーパミンを放出させる。

つまり、タバコの中に含まれるニコチンは、生命が何千万年、何億年という進化の過程の中で作り上げた『生命維持や子孫繁栄を促進させる状況に対して「喜び」「楽しみ」「心地よさ」「愛しさ」などの「快」の感情を生み出す』という回路をすっとばして、それらとまったく関係なしに直接「快」の感情を生み出すという凄い物質なのである。

ちなみに、愛する人と一週間別れて仕事しないといけない生活には耐えられても、タバコを一週間吸わずにすむという「愛煙家」は稀である。そして、喫煙者を「愛煙家」と呼ぶが、「愛酒家」という言葉はあまり聞かないし、いわんや「愛ジュース家」「愛ガム家」「愛スルメ家」などとは言わない。なぜ嗜好品と呼ばれるものの中で、タバコに関してことさら「愛煙家」と呼ぶのかと言えば、タバコに含まれるニコチンが、「喜び」「楽しみ」「心地よさ」「愛しさ」などの「快」の感情を生み出す最終段階、脳内報酬系のA10神経を「直接」刺激しているからに他ならない。「タバコの方が主人より、私のそばにいつもいつも一緒に居てくれる頼もしい恋人」と話された女性がおられたが、実際、タバコは「愛しさ」を感じるA10神経を直接刺激するのだから、当然そういう話になる。そして「夫/妻と別れても、タバコとは別れられない」という人がたくさんいても当然ということになる。

さて、このようにタバコは、生命が何千万年、何億年という進化の過程の中で作り上げた『生命維持や子孫繁栄を促進させる状況に対して「喜び」「楽しみ」「心地よさ」「愛しさ」などの「快」の感情を生み出す』という回路をすっとばして「快」の感情を生み出しているのだが、もしタバコが生命維持や子孫繁栄を促進させるものであれば、この回路を経由するか経由しないかという違いはあっても問題は小さいかもしれない。しかし残念なことに、タバコは生命維持や子孫繁栄を妨げる約200種類の有毒物質が含まれた毒のかたまりなのである。そして、タバコは生命維持や子孫繁栄を妨げる代物であるにもかかわらず、「喜び」「楽しみ」「心地よさ」「愛しさ」などの「快」の感情を直接生み出して、それがあたかも生命維持や子孫繁栄を促進させる行為であるかのように錯覚させる。

例えば「仕事のストレスを解消するにはタバコしかない」「タバコだけが自分の人生の楽しみ」という人も少なくない。しかしそこで考えていただきたいのは、

「なぜ人間はストレスを感じているのか?」

「なぜ人間はストレスを解消してリラックスしないといけないのか?」

という問題である。例えば仕事や生活に対してストレスを感じているときというのは、仕事や生活のために体に無理が来ており「もうちょっと休んで、体をいたわってくれ。癒してくれ」というアラーム警報が鳴っている状態なのである。ここで「あぁ、ストレスがたまる。しっかり休もうか」と、このアラーム警報が鳴り止むまで休めば、体も十分回復する。しかし、そこでタバコを吸うと、体が休めたかどうかとは関係なくリラックス「感」が生まれて「よし、もう大丈夫だ、また仕事ができるぞ」と脳は錯覚する。しかしタバコを数分吸うために仕事の手を止めただけでは、体にかかったストレスは回復していないことが少なくない。それどころかタバコ自身が交感神経系を抑制するどころか促進してしまい、しかもタバコの中には約200種類の有毒物質が含まれるため、体はますますダメージを受ける。体はますますダメージを受けているのにもかかわらず、アラーム警報は鳴り止み青信号が出ている。ニコチンが切れてくる1時間後程度には再びストレスというアラーム警報が鳴り出すが、それに対しても再びタバコを吸うことでアラーム警報が鳴らないように抑え込んでしまう。「ストレスが解消された感じ」「リラックスできた感じ」になってしまう。そうなると体が癒されない状態が延々と続くことになる。結果的に喫煙者はさまざまな病気になりやすくなり、寿命も短くなりやすい。まただからこそ「仕事や生活に頑張っている意志の強い人」ほど、タバコをやめにくい、という印象を私は持っている。

つまり、タバコは確かに「リラックスできた感じ」「癒された感じ」「愛され満たされる感じ」を生み出すが、しかし生み出されているのはあくまで「リラックスできた感じ」「癒された感じ」「愛され満たされる感じ」であって、本当の意味での「リラックス」「癒し」「愛」ではない。タバコが与えてくれるのは、見せかけだけの、偽りの愛、偽りの癒し、偽りのリラックスでしかない。

ちなみにタバコが世界に広まった歴史は、コロンブスが1492年にアメリカ大陸を発見し、そこでタバコを知り、そして1493年にスペインに持ち帰ってからのことである。つまり実質約500年の歴史でしかない。生命が『生命維持や子孫繁栄を促進させる状況に対して「「喜び」「楽しみ」「心地よさ」「愛しさ」などの「快」の感情を生み出す』という回路を作り出すのに要した何千万年、何億年という生命の進化の年月と比較すれば、ほんのわずかでしかない。そしてたった500年という年月は、タバコに対応できるような人体の構造変化(遺伝子の変化)を伴う進化などとうてい起きない短い時間でしかない。

もしかすると何百万年後には人類は進化して、タバコを吸ってもそれがかえって生命維持や子孫繁栄に有利になるような生物になっていたりとか、逆にタバコを吸うことが不快の感情を惹き起こすような生物になっているのかもしれない。しかしそれは何百万年も先の話であって、私達が生きている時代には起こりえないことである。

また話はさらに脱線していくが、禁煙運動に関わっていると、「タバコを健康のためにやめましょうなんて、快楽に否定的な固苦しい道徳的な人間だね」と思われてしまうことがよくある。しかしこのイメージは、2つの問題を混同した誤ったイメージにすぎない。なぜなら先に述べたように「快」「楽」という感情は生命維持に大事な基本機能であり、それが「社会」「文明」と軋轢を起こしたことによって「快楽に否定的な固苦しい道徳」という問題が生じたのは、ここ数万年〜数十万年の間の話である。これに対して、タバコの問題はそれとはまったく次元が異なり、「快」「楽」の感情といった生命維持に大事な基本機能が、ニコチンによって惑乱させられるということが、ここ約500年で世界的な規模で起きている、という問題なのである。しかし残念ながらこの2つの問題は混同されて、その誤ったイメージが一般的なものとなっている。

さて、やっと話が戻るが、「愛煙家」の脳の中では、脳内報酬系を直接刺激するタバコ(ニコチン)によって、「喜び」「楽しみ」「心地よさ」「愛しさ」などの「快」の感情が生まれ、本能的にはそれがあたかも生命維持に重要なものであるかのような錯覚が脳の中で生まれている。そして「タバコをやめる」と考えると、すべての「喜び」「楽しみ」「心地よさ」「愛しさ」を奪われてしまうような「恐怖」を感じることになり、そしてその「恐怖」を生み出す不快な行動、「禁煙」から逃げ出して、またタバコを吸い始めることになる。理性的な情報としては「タバコは健康に悪い」という情報が存在しても、その一方で、タバコと別れるということを考えれば、脳の中では「喜び」「楽しみ」「心地よさ」「愛しさ」をすべて根こそぎ奪われてしまうような「恐怖」が生じ、それがあたかも生命の危機であるかのように錯覚させられるからこそ、禁煙は難しいのである。

脳の話は少し難しく、このエッセーもいつになく長文になってしまったが、大事な考え方だと私は思っている。脳科学に基づいた禁煙戦略の重要性を私は実感している。


ちなみに帰納的論理プログラミングなどを勉強していると、人間の知能、推論能力の不正確さがよくわかるのだが、この話とタバコの関係はまた別に話したい。


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